小城好事(おぎさぼ)ブログ

田舎暮らしとか、台湾、子育てなどなど

客家の祖父

先日、祖父が他界した。

御年94歳。

地元長崎にてお通夜、葬式を行った。

 

正直我が強く、

あまり他人とうまくいく性格ではなかったが、

俺はじいちゃんっ子だった。

小さい頃は一緒によく魚釣りに行った。

両親に内緒でアイスクリームやお菓子を買ってもらった。

幼稚園の迎えも時々祖父が来ていた。

両親のもとではテレビが禁止されていたが、

こっそり祖父の部屋でテレビを見ていた。

初孫の兄より可愛がられたと思う。

 

今思うと、あまり昔の話を語らない人だった。

みんな同じことを言うが、

もっといろんな話が聞きたかったな。

覚えてる内容をメモ書き的に綴ってみた。

 

祖父は台湾屏東出身の客家だ。

客家とは、日本人には馴染みが無いが、

漢民族だが独特の文化や言語を持つ。

書けば長くなるので、ウィキ先生を。

客家 - Wikipedia

 

生まれた大正13年は日本統治時代だったため、

日本国籍として生まれた。

家庭内では客語を使い、学校では日本語教育を受けた。

16歳で東京へ出稼ぎに。

客語がどれくらい話せたかはわからないが、

日本語はネイティブだった。

東京に数年住んでいたそうな。

俺は東京の土地勘は全く無いのだが、

嫁さんの千秋と東京の話で盛り上がった際は驚いた。

 

第二次世界大戦東京大空襲で焼きだされ、

客家のネットワークを頼り、九州の長崎県へ。

九州へ移動する際の列車も山口県で爆撃を受けたらしい。

そんな中生き残ってきたので運が強い人物だ。

 

長崎県では煮干屋で働き、

オーナーが亡くなり、あとを継いだそうだ。

原爆で生き残った祖母と出会い、結婚、父を産んだ。

 

祖父は客家アイデンティティが強かったせいか、

稼いだお金の多くを屏東の本家へ送っていたらしい。

 

 戦後、日本は台湾を手放し、

中華民国が台湾を支配することになった。

その際、国籍が中華民国に。

しかし、日本が中華民国と国交断絶。

再び日本国籍となる。

人生で2回国籍が変わることは珍しい。

それも、自分の意志ではなく。

まして、現在台湾の国語はいわゆる中国語(台湾華語)。

現在の台湾で客語を話せる人はかなり少ない。

つまり、生まれ故郷に戻っても自由に通じる言語がなかった。

自分が何人という感覚はあまり持ってないようだった。

国籍云々より、アイデンティティとしては「客家」だったのかもしれない。

 

通夜、葬式にて動かなくなった祖父を見送った。

まだポッカリ穴が空いている用な感覚だ。

どんな人生だったのかな…

時代や民族、国家に翻弄されていた。

長い間、ご苦労様でした。

安らかに。